• アジア太平洋戦争末期。すでに日本軍の敗色濃厚だった1945年1月31日、一人の男が沖縄の地を踏んだ。戦中最後の沖縄県知事・島田叡(しまだ・あきら)である。前年の10月10日、米軍による大空襲によって那覇は壊滅的な打撃を受け、行政は麻痺状態に陥っていた。そんな中、内務省は新たな沖縄県知事として大阪府の内政部長、島田叡に白羽の矢を立てた。辞令を受けた島田は、家族を大阪に残し、ひとり那覇の飛行場に降り立ったのである。
  • 知事就任と同時に、島田は大規模な疎開促進、食料不足解消のため自ら台湾に飛び、大量のコメを確保するなど、さまざまな施策を断行。米軍が沖縄本島に上陸した後は、壕(自然洞窟)を移動しながら行政を続けた。だが、戦況の悪化に伴い、大勢の県民が戦闘に巻き込まれ、日々命を落としていく。また、島田自身も理不尽極まりない軍部からの要求と、行政官としての住民第一主義という信念の板挟みになって苦渋の選択を迫られる―。
    戦時下の教育により、捕虜になるよりも自決や玉砕こそが美徳とされた時代、島田はしかしそれに反し、周りの人々に何としても「生きろ」と言い続けていた。その考え方はどのように育まれてきたのか?
  • 沖縄戦を生き延びた住民、軍や県の関係者、その遺族らへの取材を通じ、これまで多くを語られることのなかった島田叡という人物の生涯と、語り継ぐべき沖縄戦の全貌に迫ったこの長編ドキュメンタリーは、『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』2部作で沖縄戦後史に切り込んだ佐古忠彦監督が、牛島満・第32軍司令官から島田にあてた手紙など、新たに発掘された資料も交え、沖縄の知られざる戦中史に迫った野心作だ。
    語りは、山根基世、津嘉山正種、そして佐々木蔵之介が島田叡の語りを担当。小椋佳の主題歌『生きろ』はオリジナルで作られ、自身のラストアルバム「もういいかい」にも収められている。
    権力者への忖度(そんたく)、資料の改竄(かいざん)や隠蔽(いんぺい)が常態化し、政治不信が蔓延する21世紀・令和の時代に生きる私たち日本人の眼に、後に「官僚の鑑」(かがみ)、「本当に民主的な人」と讃えられた島田叡という人物の生き方はどのように映るだろうか。
アジア太平洋戦争末期。すでに日本軍の敗色濃厚だった1945年1月31日、一人の男が沖縄の地を踏んだ。戦中最後の沖縄県知事・島田叡(ルビ:あきら)である。前年の10月10日、米軍による沖縄大空襲によって那覇は壊滅的な打撃を受け、行政は麻痺状態に陥っていた。そんな中、内務省は新たな沖縄県知事として大阪府の内政部長、島田叡に白羽の矢を立てた。辞令を受けた島田は、家族を大阪に残し、ひとり那覇の飛行場に降り立ったのである。
知事就任と同時に、島田は大規模な疎開促進、食料不足解消のため自ら台湾に飛び、大量のコメを確保するなど、さまざまな施策を断行。米軍が沖縄本島に上陸した後は、壕(自然の洞穴)を移動しながら行政を続けた。だが、戦況の悪化に伴い、大勢の県民が戦闘に巻き込まれ、日々命を落としていく。また、島田自身も理不尽極まりない軍部からの要求と、行政官としての住民第一主義という信念の板挟みになって苦渋の選択を迫られる―。
戦時下の教育により、捕虜になるよりも自決や玉砕こそが美徳とされた時代、島田はしかしそれに反し、周りの人々に何としても「生きろ」と言い続けていた。その考え方はどのように育まれてきたのか?
沖縄戦を生き延びた住民、軍や県の関係者、その遺族らへの取材を通じ、これまで多くを語られることのなかった島田叡という人物の生涯と、語り継ぐべき沖縄戦の全貌に迫ったこの長編ドキュメンタリーは、『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』2部作で沖縄戦後史に切り込んだ佐古忠彦監督が、牛島満・第32軍司令官から島田にあてた手紙など、新たに発掘された資料も交え、沖縄の知られざる戦中史に迫った野心作だ。
語りは、山根基世、津嘉山正種、そして佐々木蔵之介が島田叡の語りを担当。小椋佳の主題歌『生きろ』はオリジナルで作られ、自身のラストアルバム「もういいかい」にも収められている。
権力者への忖度(そんたく)、資料の改竄(かいざん)や隠蔽(いんぺい)が常態化し、政治不信が蔓延する21世紀・令和の時代に生きる私たち日本人の眼に、後に「官僚の鑑」(かがみ)、「本当に民主的な人」と讃えられた島田叡という人物の生き方はどのように映るだろうか。
1945年4月1日、沖縄本島中部に上陸したアメリカ軍は、島を南北に分断した。迎撃にあたった日本軍は、南部に撤退して持久戦を展開したため、沖縄県民を巻き込んだ激しい地上戦となった。6月23日、組織的戦闘は終わった。沖縄の住民約9万4,000人、沖縄出身者もふくむ日本軍約9万4,000人、アメリカ軍約1万2,000人が亡くなったとされる。
沖縄戦中、島田叡が移動した壕と行程
島田叡(しまだ・あきら) 沖縄県知事 
1901年(明治34年)12月25日
医師の長男として生まれ、現在の神戸市須磨区で育つ。少年時代から野球と読書に親しむ。
1914年(大正3年)
野球の強豪、第二神戸中学校(旧制神戸二中、現・兵庫県立兵庫高校)に入学し、野球部に入部。俊足、巧打の中堅手として活躍、最上級生になると主将に。
1919年(大正8年)
京都・第三高等学校(三高)に入学し、野球部へ。早慶戦が中断、東京六大学野球も成立していない当時、日本球界最高峰と謳われた東京・第一高等学校(旧制一高)との試合で大きな注目を集める
1922年(大正11年)
東京帝国大学法学部に進学。野球部のスター選手として名を馳せ、その名は東京ドーム内の野球殿堂博物館にも刻まれている。
1924年(大正13年)5月
連敗中の母校、三高野球部に学生監督として着任。「用兵の妙」を発揮して8月の一高戦に圧勝。
1925年(大正14年)4月
内務省に入省。10の府県に勤務、東京勤務を一度も経験しない「異色の官僚」だった。赴任先では中央の無理難題に「本県には本県の事情がある」ときっぱり断る気骨ある人物と評判になった。
1944年(昭和19年)8月
愛知県から異動し、大阪府内政部長(大阪府のナンバー2)に。
1945年(昭和20年)1月12日
沖縄県知事の辞令を受け取る。家族全員から反対されるも、「これが若い者ならば、赤紙1枚で否応なしに行かなければならないのではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、もう卑怯者として外も歩けなくなる。俺は死にとうないから誰かが行って死んでくれとは、よう言わん」と決意を変えなかった。
同年1月31日
福岡から軍用機で那覇に向かい、沖縄県知事着任。2冊の本を携えていたが、一冊は武士道を説いた「葉隠」、そして西郷隆盛の言葉を綴った「南洲翁遺訓」。この本には“道を行う者は、様々な困難や災厄に遭うものだから、どんな艱難に遭っても事の成功失敗や自分の生死には少しも心を動かしてはならない”と、リーダーとしての道が説かれていた。
以降、戦時下の沖縄で約5か月にわたって県内行政を指揮したが、沖縄戦組織的戦闘終結直後、摩文仁の軍医部壕を出てから消息を絶つ。
荒井退造(あらい・たいぞう) 沖縄県警察部長
1900年(明治33年)、栃木県、現在の宇都宮市上籠谷町に生まれる。警視庁巡査の職務の傍ら明治大学夜間部に通う。27才で高等文官試験に合格後、内務省に入省。1943年、福井県官房長から沖縄県警察部長に就任。沖縄戦では島田県知事を支え、住民の県外・北部疎開や軍との交渉などにあたる。その後も島田と行動を共にし、沖縄戦組織的戦闘終結後、島田とともに消息を絶つ。
大田實(おおた・みのる) 海軍司令官
1891年(明治24年)、千葉県長生郡に生まれる。志望校の受験に失敗し、海軍への道を進むが、肺結核にかかり、軍艦乗りから陸戦隊に。佐世保海兵団長として新兵教育にあたっていたが、1945年1月20日、島田が着任する11日前に沖縄に赴任。2月下旬、海軍施設に島田知事、荒井警察部長らを招いての歓迎会を開き、そこで島田と意気投合。6月6日、大田が海軍次官宛に打電した「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という電文は、島田に代わり、戦場で酷い苦しみを味わった沖縄県民への配慮を訴えていた。6月13日、海軍壕内で自決した。
牛島満(うしじま・みつる) 第32軍司令官
1887年(明治20年)、東京都に生まれ、鹿児島市に育つ。1944年8月、沖縄に赴任。首里の司令部壕で戦闘を指揮していたが、米軍が迫ると首里を放棄し、住民が多く避難している南部への撤退をもくろむ。それを知った島田が強く異を唱えたが聞き入れず、1945年5月27日、南部撤退を開始。その結果、多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は激増した。6月19日、全軍に“最後マデ敢闘シ生キテ虜囚ノ辱メヲ受クルコトナク悠久ノ大義ニ生クベシ”という命令を出した後、6月23日に摩文仁の司令部壕で自決した。
山里和枝さん
元県庁輸送課職員。軍司令部に向かう島田の最後の姿を目撃する。
「長官お出かけですか、と申し上げたら、ちょっと近寄ってきて、僕たちはこれから軍の壕に行くから君たちは最後には手を挙げて出るんだぞ、敵は女子供にはどうもしないから絶対に友軍と共に行動するんじゃないぞ、手を挙げて出るんだぞ、とおっしゃって軽く私の肩を押して出ていらっしゃいまして」
上地よし子さん
荒井家で家族と生活を共にしていた。
「沖縄が負けたからって全部なくなった、それはだめだよって、また立て直していかないといけない。命が大事よっていつも言っておられた。むやみに死んじゃダメだって。自分の体を大事にしなさい。命どぅ宝って言葉が沖縄にはあるでしょって言ってからに」
板良敷朝基さん
知事官房に勤め、島田の下で働く。
「勇気が湧いてきて、この人とならば運命を共にすることが出来る。この人となら死ねるねという気持ちになって」
大田昌秀さん
元・沖縄県知事。戦中は鉄血勤皇隊の少年兵
「軍が県に対して要請と言うのは当時は命令なんですよ。それを拒否というのは、そもそも知事としての職務を果たせない、軍隊は県民も一緒に玉砕するんだと公然と言ってた中で、何とか住民の命を守ろうとやったわけですから、その辺を単純に軍隊と一体化して生徒を動員したなんて、当時の実情を知らない人が言うことであって知っていたらとてもそんなことは言えませんよ」
上原徹さん
島田のそばで勤務していた少年警察官
「体を大事にしなさいよ、とおっしゃっていた。後で考えると、生き延びなさいよと伝えたかったんだなと」
仲松庸全さん
日本軍将校が少女を銃殺する姿を目撃。自らも軍刀で切りつけられる。
「日本刀で切り付けてきた、国賊だといって。『青年、貴様国賊、たたき切ってやる』。風を切る音が耳に残ってる」
「沖縄の人々の気持ちから全く消せないものに沖縄戦の体験がある」
亡くなった元沖縄県知事・大田昌秀さんの言葉である。
戦後も27年に及ぶアメリカの軍事占領を余儀なくされ、日本復帰から間もなく半世紀になろうとするが、いまなお沖縄が歩く苦難の道。その原点こそが、大田さんの言う沖縄戦である。
『生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事』は、その沖縄戦直前、そこが米軍上陸必至の死地であることを悟って県知事として敢然と赴任、60万県民の命を委ねられた一人の内務官僚の物語だ。その映像も音声も存在しない中で、語りと数々の証言によって人物を浮き彫りにする、いわば挑みの作品である。
島田は、官尊民卑の時代に、正面から沖縄の人々に向き合ったという。沖縄戦終焉の地・摩文仁の丘にある慰霊塔「島守の塔」には、島田叡の名が刻まれている。ある先輩記者は、警察を含む当時の内政の中枢をつかさどっていた内務省の官僚が、個人名まで記され沖縄で慰霊の対象となっているのを初めて目にして、大きな興味と違和感を覚えたと言った。
私も同様の疑問を抱いていた。これほどまでに、当時の沖縄で語り継がれる本土の人間とは、いったいどういう人物なのか・・・。だが、一方で、軍とともに戦争を遂行したとして官のトップの立場にいた島田の責任を強く問う、批判の声は厳然とある。軍に協力した人物を美化してはならないという声もある。確かに、戦時の県知事として果たした役割に関し、負うべき責めがあることは否定しない。だからこそ、島田の功罪、また人間としての苦悩、揺れる心も含めて表現することで、人間・島田叡が生きた姿を描きたいと思った。美化ではなく、現代とはかけ離れた時代背景、価値観の中で、「個」として島田が何をなしたか、そこにこそ着目すべきではないかと考えるのである。
原点・沖縄戦を伝えるドキュメンタリーは、住民はじめ様々な視点で語られてきたが、今回、あえて官僚の側から描いたのは、時代を問わず、国やリーダーのありようを繰り返し問うべきだと考えるからである。その判断が誤っていたとき、また、それを改める機会を逃したとき、最もその影響を受け危険にさらされるのは国民である。新型コロナウイルスの感染拡大という思いもよらぬ事態に見舞われた2020年、リーダーたちの決断一つで、私たちはいかようにもどこにでも連れて行かれることを改めて意識したとき、果たして、私たちは、どれだけ歴史の教訓を学んできたといえるか。76年前の出来事は決して昔話ではなく、すべて「いま」に問いかけているような気がしてならないのだ。
戦場に残された「生きろ」の言葉に見る島田の絶望と希望。そして、島田を取り巻いた人々やその家族、あの地獄を生き抜いた人々の証言などから、戦争とは何か、沖縄戦とは一体何だったのか、かつて私たちの国がどんな姿をしていたのか、多くのものが見えてくる。もちろん、これも一つの視点に過ぎない。だが、歴史は、そのまま今の私たちがいかにあるべきかを教えてくれている。
佐古忠彦


1988年
東京放送(TBS)入社
1996年~2006年
筑紫哲也NEWS23 キャスター
2006年~2010年
政治部
2010年~2011年
Nスタ キャスター
2014年~2017年
報道LIVEあさチャン!サタデー MC
Nスタニューズアイ キャスター
2013年~2017年
報道の魂 プロデューサー
2017年~2021年
JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス プロデューサー
劇場公開作品
■「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー」
(2017)
文化庁映画賞文化記録映画優秀賞
アメリカ国際フィルム・ビデオフェスティバルドキュメンタリー・歴史部門銅賞
日本映画ペンクラブ賞文化部門1位
などを受賞

■「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯」
(2019)
平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞受賞

著書
■「米軍が恐れた不屈の男 瀬長亀次郎の生涯」(2018 講談社刊)
監督:佐古忠彦 プロデューサー:藤井和史 刀根鉄太
撮影:福田安美 音声:町田英史 編集:後藤亮太
選曲・サウンドデザイン:御園雅也 音響効果:田久保貴昭 音楽:兼松衆 中村巴奈重
語り:山根基世 津嘉山正種 佐々木蔵之介 
主題歌:『生きろ』小椋佳(ユニバーサルミュージック)

【2021年 日本/日本語 カラー(一部モノクロ)ビスタ/5.1ch/118分】
製作:「生きろ 島田叡」製作委員会 配給:アーク・フィルムズ
ⓒ2021 映画『生きろ 島田叡』製作委員会